未来のお話をつくってみました。しかし非現実的とも思っていません。健康の重要性はだれでも知っています。しかしお金がかかることについてはあまり理解されていないと思います。こんな話です…。
●2028年秋。「監獄レストラン法」成立
「罪のない人間を牢獄にぶち込んでくさい飯を食わせる悪法だ」と言われた。猛烈な反対の声は国会議員だけでなく全国の人びとからあがった。「人権にかかわる。違憲だ」。憲法学者からも指摘されていた。
内閣官房参与のタカハシは静かに成り行きを見ていた。参与とは言え本職は商社マンである。この法律によって莫大な利権と利益が生まれることから社命によって裏方仕事を任されていた。ここまで来たら成立は間違いない。
政府は怒号、罵声、悲鳴のなかで強引にこの法律を通した。「やむにやまれぬ」が総理の言葉だった。
「監獄レストラン法」。正しい法律名は「栄養指導施設による国民健康維持法」である。2019年度約44兆円だった国民医療費は2027年度に65兆円を突破してしまった。急速な高齢化で医療費が増加したのである。2028年末、日本の国民の35%が65歳以上となる。
医療費増加の主因は「生活習慣病」だ。若いときにはなんともなかった高血圧、糖尿病、脂質異常症は高齢化とともに重症化する。通院、投薬、入院などで健康保険への負担が急増。国・地方自治体の財政負担は限界を超えてしまったのだ。
●病気にならないための予防医療。収監による栄養指導
国民医療費をどうしても減らす必要がある。診療費や薬価を下げることはできない。つまり病気になってから病院に行くことがあってはならないということだ。世界から嫉妬されるほどの手厚い国民皆保険制度の裏にある罠である。「保険があるから大丈夫」が問題なのである。
そこで政府は健康診断の結果を厳格に審査することにした。生活習慣病は事前に予測できるからだ。これを徹底的に防ぐことで国民医療費を下げることができると判断した。
厚生労働省によると国内には高血圧症の患者が約1,000万人、糖尿病と脂質異常症患者があわせて500万人以上いる。実際に病気となっている人たちだ。
重要なことは、これらの病気の予備軍が約2倍、合計で3,000万人以上いることだ。国民の3割である。ここを抑えることができれば効果が大きい。
これまでの医者の指導は「おみそ汁は薄めに」「寝る前には食べないように」。これでは病院を出たとたんにゼロだ。そこで厚生労働省が出したプランは「収監」して強引に指導することだった。
●罰則は「通い」から「無期刑」まで
交通違反と似た制度設計になっている。健康診断の結果によって、管理栄養士と医者と警察官からなる栄養指導委員会から処罰内容が送付される。
法治国家の日本。もちろん不服申し立てもできる。しかし即日結審で、処罰が回避されることはほぼない。健康診断結果があるので動かしがたいのだ。
交通違反と違うのは反則金制度がないことだ。反則金でそのままにすると健康悪化によってさらに重い病気となり国家財政への負担が多くなるからだ。
「栄養指導施設による国民健康維持法」違反は国家財政を不当に消費させる立派な犯罪である。刑罰は監獄レストランを1日1回利用するという軽いものから、改善されるまで拘束される無期という重いものまである。
また「監獄レストラン法」では監獄、つまり拘置所に入るのに金をとられる。利用料が必要なのである。そうでなければ、あえて病気予備軍となる収監希望者が出てしまうからだ。
そのかわり食事は手厚い。一人ひとりの健康状態にあわせ健康改善のための食事が出されるからだ。ただし美味しいものはあえて出されない。そして厳格に健康管理され、改善できれば釈放される。
刑期を終えて出獄するときには管理栄養士が見送りに来る。「二度とここに戻ってこないでくださいね。そして、長生きしてね」。
●噴火した他山の石、アメリカの医療制度が降ってくる
タカハシは米国本社勤務時代に、オレゴンの田舎生まれの彼女が毎日必死に歯磨きする姿を思い出している。「もし歯医者に行ったらいくらかかるのか日本人のタカハシにはわからないのよ」が口グセだった。
日本は国民皆保険制度である。全国民が健康保険に入っている。しかしアメリカにはこれがない。国民一人ひとりが自分で保険に入らなければならない。日本の「監獄レストラン法」ができたのもアメリカのこの医療制度が遠因になっている。
オバマ大統領のオバマケア(医療保障改革法)ができるまで、アメリカでは全国民の15%以上、約4,800万人が無保険だった。
基本的に民間医療保険企業が受け皿になっている。病気を抱えている人は医療保険会社に加入を拒否されることもあった。オバマケアでなくなったようだ。医療費がかかりそうな人は加入してほしくないのだ。
またアメリカの医療費は医療事故の訴訟に備えて高額になっている。薬価も政府が介入しないので高額である。医療保険がなければ医者にはいけない。長生きはできない。
アメリカ人の平均寿命は78.9歳。OECD諸国のなかではかなり低い。それに比べて支払う一人当たりの医療費は世界でも群を抜いている。10,948ドル、100万円以上だ。
日本は平均寿命84.4歳。医療費は4,691ドル。医療費は2割の負担で済む。アメリカで医療保険に入れなかったら自己破産か死を待つだけだ。
自主・独立の精神。人権、平等、自由、幸福の希求をするアメリカ。しかし医療保険の問題では悩み続けている。いまでも大統領の選挙戦では医療制度改革が必ず争点の一つになっている。
もし日本の国民皆保険制度が財政的に崩壊してしまうとアメリカ型の民間医療保険制度が待っている。他山の石は、火山の溶岩のように熱くドロドロになって襲いかかってくるのである。
●遠因は家族の崩壊。そして個食へ
「ジャンクフードの食べすぎだ」「ファストフードチェーンが悪い」「食育ができていない」。
なぜ医療費が増えたのか玉石混淆の議論がなされた。しかし本質は家族の崩壊にあるようだ。
日本の世帯構成は2019年、ついにひとり世帯がもっとも多くなった。ひとり暮らしの高齢者が多くなったこともある。また若い世代では年収が少なく家族をもつことができない層もいる。さらに自発的にひとり住まいを好む層も生まれている。都心であれば家族で住む必要性を感じないからである。
ひとり住まいは現代の産業構造によるものである。農業社会であれば大家族が必要であった。工業社会では核家族がこれを支えた。現代の情報社会では一人ひとりが生産を行う。家族の重要性が軽くなってしまったのだ。
これによって「不健康」という問題が発生したのである。フランスの経済学者ジャック・アタリは『食の歴史』のなかで個食化された未来についてこう書いている。
最初になくなるのは朝食だろう。各自がその日のスケジュールに応じた好き勝手な時間に冷蔵庫から食べ物を取り出して朝食をとるようになるのだ。
次に昼食がなくなるだろう。職場においても社員食堂は廃止され、従業員は各自の持ち場で弁当を食べるようになる。
そして、家族で食べる夕食がなくなる。これと同時に、家族は崩壊するだろう。独り暮らしなら、少なくても夜は個食だ。(中略)
未来のノマドは、おもに糖分を摂取しながら暮らすことで、孤独を満たそうとする。というのは、われわれは孤独感からアルコールや薬物に手を出しやすくなるのち同様に、脂肪分や糖分の高い食品をもっと食べたくなるからだ。
家族がうまく維持できないこと。これによって個食化し、孤独を満たそうとすることで不健康となる。それにともない医療費が膨大に膨らんでしまったのである。
●犯罪者にならないために3Dプリンター完全食
タカハシの朝は「3Dフードプリンターレストラン」からはじまる。タカハシがプロデュースしたビジネスだ。メニューはいつもバタートーストにオレンジジュース、カリカリのベーコンと目玉焼きにトマトのサラダだ。すべて3Dプリンターでつくられた完全食である。
日本で初めての「3Dフードプリンターレストラン」が六本木にオープンしたのは2025年の春だった。マス・メディアからはキワモノ扱いされた。
しかし店舗は全国に急速に拡大した。イノベーター、つまり新しいものになんにでも飛びつく数パーセントの人たちから評価された。さらに次のアーリー・アダプター、約16%の新しいものを冷静に判断して評価する層からも「健康のためにも良い」と評価されたからだ。
「3Dフードプリンターレストラン」は、個人の健康状態や好みにあわせて、栄養素を満足させる完全食を提供できる。
さらに「監獄レストラン法」が成立してからは一躍人気レストランとなった。同時にこれまで人気だったファストフードチェーン店は一気に没落していった。
「監獄レストラン法」で収監されると犯罪者となる。人生も家庭も崩壊する。人びとはそうならないためにもこのレストランを利用するしかないということだ。
●タカハシの次の仕事がはじまった
2030年。通常国会で「気候変動防止サステナブルフード促進法案」が審議されることになった。通称「焼き肉・ラーメン禁止法」だ。
とまらない気候変動。CO2削減と世界の食糧需給の維持のためには畜産業を減少させることが必要なのだ。「監獄レストラン法」を効果的に補完するためでもある。ここでもタカハシが裏方の仕事をした。
この法律が成立すれば、焼き肉、こってりのラーメン、映えるスイーツは非合法化される。国民から猛反対の声があがっている。しかし「医療費の金がない」の声に押しつぶされるはずである。
そしてタカハシには新たな社命が下っている。3Dフードプリンターのための新たな人工食材の調達だ。しかし新しい食材は人体に影響があると言われている。食物アレルギーだ。
人工的に食品を生産し加工すれば、新しい食物アレルギーが生まれる可能性がある。すぐに死につながるようなものではないが、人を悩ませることに変わりはない。
これが新しいビジネスになるというわけだ。解決のために薬を開発し、医療を整えることになる。そしてアレルギー対策レストランも必要になるかもしれない。つまり生活習慣病が終わりかけたら、今度はアレルギー対策の時代がやってくるのだ。
タカハシの日記にはこう書かれていた。「自ら問題をつくりだして、その問題解決のためにビジネスをして稼ぐ。資本主義は罪深い…」。
いかがでしたでしょうか。架空のお話しです。架空で終わってくれることを祈ります。さて、ラーメンでも食べに行きますか。
<参考文献>
「図表でみる医療2021:日本」OECD雇用局医療課 藤澤理恵 2021年
厚生労働省「平成29年患者調査」平成31年3月
堤 未果『沈みゆく大国 アメリカ〈逃げ切れ! 日本の医療〉』集英社新書 2015
加藤智章、西田和弘編『世界の医療保障』法律文化社 2013
ジャック・アタリ/林 昌宏訳 『食の歴史-人類はこれまで何を食べてきたのか』プレジデント社 2020
2022年6月14日 掲載2024年6月7日改稿