前回、新約聖書の「狭い門」についてお話ししました。「狭い門」と言えば、日本の茶室にも狭い入り口があります。躙口(にじりぐち)です。くぐるには身体をかがめる必要があります。狭いですね。ここから茶室という小さな空間にたどりつくことができます。ニッチです。

●千利休の茶室「待庵(たいあん)」。招かれたのは秀吉

 本能寺の変で信長が明智光秀に討たれました。秀吉はわずか11日後の1582年(天正10年)6月13日に光秀を破りました。その合戦の地、山崎の近くで千利休は秀吉を迎えるために「待庵(たいあん)」というわずか二畳の茶室をつくりました。
    
 茶室の基本は四畳半。半分以下の広さです。なぜこのような茶室をつくったのかです。建築史家で建築家でもある藤森照信の『茶室学講義』の説です。
     
 利休は秀吉の本陣に近い古いお寺の阿弥陀堂を利用することにしました。しかし、小さい御堂であるために四畳半の広さがとれません。
   
 わび茶の道を志向していた利休は思い切って畳2枚分の茶室をつくることにしました。
    
 二畳という狭さをカバーするためには多くの工夫が必要でした。入り口をタテ約79センチ、ヨコ約72センチ(二尺六寸一分×二尺三寸六分)にしました。この小さな入り口が後に躙口として定着したようです。
   
 躙口の向かいに床(とこ)を設けて奥深さを出しました。また屋根裏の一部を見せて天井の圧迫感を少なくしています。さらに明かり採り(窓)で変化を与え、二畳とは感じられないような空間にしました。秀吉は喜んだはずです。

●利休の知恵と美意識がつくりあげた「わび茶」

 ここからは歴史小説家の山本兼一の『利休にたずねよ』からのお話しです。
   
 山崎の合戦に勝利したとはいえ、天下人を目指す秀吉には多くの難題が待っていました。肉体も精神も疲れた秀吉をサポートするのが利休の仕事。あっと驚くような二畳の茶室をつくり歓待したのです。小説では、ここで食事が出てきます。今で言う茶懐石です。利休は11月だというのに筍(たけのこ)の焼き物を出してきます。
    
 現代ならともかく戦国時代です。秀吉の顔もほころびました。小説では「竹藪(たけやぶ)の陽だまりを見つけ、炭の粉で黒く染めた莚(むしろ)で覆(おお)っておいた。地中が温もり、春とまちがえた筍が、顔をだしたのだ。」としています。秀吉は「利休は筍まで騙(だま)す極悪人だ」とほめています。
    
 利休の才能と美意識は現代にまで伝わっています。最後は切腹となってしまいましたが秀吉に愛されました。利休の知恵とわびの美意識が日本を代表する文化「茶道」をつくりあげました。

●ニッチ・マーケティングの極意

 畳二枚の茶室で秀吉を歓待した千利休。ニッチ・マーケティングの極意を感じます。お客さま(顧客)は秀吉ひとりです。ターゲットは絞られています。ターゲットの絞り込みはマーケティングの基本です。歓待する場所は畳二枚の狭い空間(ニッチ)です。
    
 ニッチであるこの茶室に利休は自分の才能と美意識を注ぎこみました。小説では、独自メニューとして秀吉に筍の焼き物を出しています。秀吉は満足したと思います。
    
 使い古されたマーケティング用語で言うのなら、顧客満足度の向上、ロイヤルティの獲得、固定客化です。秀吉は「黄金ならなんぼでも払うぜ」だったでしょう。
  
 ここでは「ニッチをつくる」がひとつのポイントだと思います。ニッチを発見したのではなく、ニッチをつくったのです。これについてはまたいつか詳しくお話しさせていただきます。

                              

 「わび茶」。漢字では「侘び茶」です。しかし「わび」と聞くと「お詫び」の漢字しか思い出せません。仕事でいっぱいしくじったせいでしょうか。

<参考文献>
藤森照信『茶室学講義 日本の極小空間の謎』角川ソフィア文庫 2019年
中村昌生『図説 茶室の歴史―基礎がわかるQ&A』淡交社 1998年
山本兼一『利休にたずねよ』PHP文芸文庫 2013年