ニッチ・マーケティングについて考えています。ここではニッチについて、つれづれなるままに書いてみます。探してみるとニッチはいろいろな場面で登場します。
「狭い門」。もしかしたらイエス・キリストもニッチに賛同しているのかもしれません。
マタイによる福音書7章13節14節「狭い門」にはこうあります。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通ずる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。
「狭い門…それを見出すものは少ない…。これはニッチだ」と思ってしまいました。「イエスさまもニッチの道を説いている。100万の援軍だ」。自称、ニッチ教の狂信者ですが、ここでイエス・キリストに一気に傾きそうになりました。
しかし冷静になって解説などを読んでみると「狭い門」とはニッチではなくイエス自身のことのようです。ヨハネによる福音書10章9節には「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」とあります。
残念ながらニッチの話ではありませんでしたね。私の早とちり。いつもながらの急な思い込み、誤解です。
ニッチという言葉にも「すき間」という誤解があります。これはマーケティングの考え方です。生態学ではニッチとは「生態的地位」です。生き物の独自ポジションによる生き方と考えます。むしろこちらが本流です。詳しくは別ページで解説しました。
すき間という誤解によってニッチは「もうからないビジネス」「小さな市場」「日があたらない」など暗く悲しいイメージがついています。ニッチ教の狂信者にはここが悔しいところです。
生態学のニッチは「生き物が数十億年かけて培った生き残り戦略」として堂々たる評価を受けています。調べていくとニッチ・マーケティングやニッチ・ビジネスに役立ちそうな素晴らしいヒントがいっぱいあります。
「ニッチ」を心に抱いて、その実現を目指すことは心に平安をもたらし、救いがあるはずです。イエス・キリストが狭い門であるなら、ニッチも狭い門として救いがあるものです。ともに「信じる者は救われる」ですね。