銀ブラ発祥のお店「カフェーパウリスタ」をご存じでしょうか。現存する日本最古の喫茶店です。いまもお店は銀座8丁目にあります。日本にコーヒーが定着したのは「カフェーパウリスタ」のマーケティング戦略が成功したからと考えます。

1.日本のコーヒーの夜明けは「カフェーパウリスタ」から

 銀ブラとは、銀座を散歩することではありません。銀座でブラジルコーヒーを飲むこと。そのブラジルコーヒーとは「カフェーパウリスタ」のコーヒーのことです。モボ・モガなどの言葉が流行した大正時代のはじめごろのことです。

 コーヒーの発祥はエチオピアといわれています。伝説ではヤギ飼いの少年カルディが発見。カルディは、あの有名なお店の名前ですね。赤い実を食べてヤギが興奮するところを見たことからです。そこからイスラムの宗教者ための飲み物となり、やがてイスラム世界全体にひろまりました。

 1600年ごろにはヨーロッパへと伝わりました。そのころローマ法王クレメンス8世が「異教徒のみの飲み物にしておくのは惜しい、キリスト教徒の飲み物にせん」といったと伝えられています。(全日本コーヒー協会「コーヒー歴史年表」)

 以降、コーヒーの需要が増大。ヨーロッパ諸国は供給のために植民地の南米、東南アジアでコーヒーを栽培。とくにコーヒーの生産に力を入れたのはブラジル。1900年~1901年にかけては世界のコーヒーの77.5%を生産するまでになりました。

 「カフェーパウリスタ」の創業者は、水野 龍(みずのりょう)。1908年に、はじめてのブラジル・サンパウロへの移民事業をおこなった人物です。この貢献にサンパウロ州政府は水野に無償のコーヒー豆を贈りました。

 これによって水野は1911年(明治44年)に「カフェーパウリスタ」を開店。すぐに人気店となり、最盛期には東京、大阪、名古屋、上海などに20店舗以上の店を展開。世界で初めてのコーヒーチェーンともいわれています。「カフェーパウリスタ」は日本のコーヒー黎明期のけん引役となりました。

2.コーヒーをひろめた二つのマーケティング戦略

 江戸時代にコーヒーを飲んだ文化人、大田蜀山人は「焦げくさくて味ふるに堪えず」とのコメントを残しています。はじめてなら苦いはずです。そんなコーヒーをどうして日本人が飲むようになったのでしょうか。これには「カフェーパウリスタ」のマーケティング戦略が大きく貢献したのだと思います。

 主な戦略は二つ。ブランド戦略と価格戦略です。

(1)強烈なブランド戦略

 「カフェーパウリスタ」は、当時パリで有名だったカフェ「ル プロコープ」を参考にしていました。1686年創業。いまでも営業するパリ最古のカフェです。店内は金色のフレームの大きな鏡、大理石のテーブル、天井画、シャンデリアなど豪華な装飾がほどこされていました。近くにはコメディ・フランセーズ(1680年にできたフランス国立劇場)があり、出演する俳優、上流階級、文化人が集まり大盛況となりました。

 「カフェーパウリスタ」は、このパリ最先端の流行を取り入れて開業。これによって当時の文化人たちが、こぞって来店。藤田嗣治、芥川龍之介、小山内薫、藤原義江、北原白秋、菊池寛、獅子文六など各界の名士が集まりました。

 宣伝活動も画期的でした。店内でサービスするのは海軍士官の正装をした美少年たち。また、燕尾服(モーニング)にシルクハットで正装した6尺3寸(約190センチ)の大男と美少年給仕がコーヒーの試飲券をくばって歩いたとのこと。

 その試飲券には「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き」のキャッチフレーズ。このコピーの出どころは「悪魔の如く黒く、地獄の如く熱く、天使の如く清らかで、愛の如く甘く。これがコーヒーである」という19世紀のフランスの政治家タレーランの言葉のようです。

 ゴージャスな店、強烈な宣伝で圧倒的に強いブランドがつくられました。銀ブラという言葉がいまも残っていることからもわかります。「カフェーパウリスタ」は20世紀初頭の日本人に深く刻みこまれたものと思います。

(2)最終兵器はペネトレーションプライス(初期低価格)政策

 もうひとつのポイントは価格。「カフェーパウリスタ」のコーヒーは一杯5銭。破格の値段でした。同じころ銀座にあった「カフェープランタン」は一杯30銭。消費者物価指数をもとにした1911年の1円は、2017年の3,261円。となると30銭は約980円。5銭はわずか163円です。(Webサイト「日本円価値計算機」より)

 そのころ世界ではコーヒーの生産が増加。1902年にはコーヒー価格が暴落。ブラジルではコーヒーが生産過剰となっていました。ブラジル・サンパウロ州政府はコーヒー豆の新たな市場を探していました。そこで、移民事業で貢献していた水野に、日本市場の開拓のためとして年間1,000俵のコーヒー豆を12年間無償で提供することにしました。

 1俵は60キロ。1,000俵なら60トンです。1910年の日本のコーヒー輸入量は68,493kg。68.5トンです。どう処理するのか悩むぐらいの量でもあったはずです。

 これが本物のブラジルコーヒーを一杯わずか5銭で販売できた理由でした。その結果、「カフェーパウリスタ」は大人気。1日4,000杯のコーヒーが売られたといわれています。サンパウロ州政府の戦略が成功したということでもあります。

 マーケティングにおける新製品の価格戦略は2方向。高い価格設定で早期に利益を確保する初期高値価格政策(スキミングプライス政策)。もうひとつは、低価格で製品を市場に浸透させ市場を拡大。そこから利益を確保する初期低価格政策(ペネトレーションプライス政策)です。

 「カフェーパウリスタ」は無償のコーヒー豆を使った初期低価格政策(ペネトレーションプライス政策)で成功したということです。この「カフェーパウリスタ」の成功によって、日本人は短期間でコーヒーを飲むようになりました。(図参照)

3.ニッチな飲食店ビジネスが学ぶべきこと

 これから飲食店は新しい食材を導入する可能性があります。たとえば、すでにはじまっている大豆たんぱく、パッケージ化された完全食、近い将来実現すると思われるクリーンミート(培養肉)などです。はじめはニッチな飲食店になります。新食材導入の成功手法は「カフェーパウリスタ」から学べます。

(1)ライフスタイルを巻きこんだブランド戦略

 「カフェーパウリスタ」では、コーヒーをとりまく文学、芸術などの文化人の活動を取りこんだことが成功要因でした。新しい時代の新しい習慣が人びとを引きつけました。

 新製品の発売では製品の特徴を伝えることに注目しがちです。飲食なら、おいしさや栄養などを伝えることに熱心になってしまいます。新しい食材では、製品特徴だけでなく、新しいライフスタイルや文化を伝えることが必要になります。

(2)高い利益率を意識する価格戦略

 マーケティングの神さまP・コトラーは、ニッチャーは高い利益率が必要といっています。「カフェーパウリスタ」は初期低価格政策(ペネトレーションプライス政策)で成功しました。しかし、そこには無償のコーヒー豆という通常ではありえない条件があったからです。初期低価格政策(ペネトレーションプライス政策)には投資活動が必要になります。リスクをともなう規模の大きなビジネス活動です。

 ニッチな飲食店であるならば利益率を強く意識する必要があります。いろいろなニッチな飲食店を拝見しています。利益率について留意されているところは少ないように思います。

 年間を通じてかき氷を販売する谷中銀座の「ひみつ堂」さん。商品開発と質の高い材料を使ったメニューで高い利益率を確保されていると思います。ニッチな飲食店の見本となるお店だと思います。

 初期低価格政策(ペネトレーションプライス政策)か初期高価格政策(スキミングプライス政策)か、どちらを選ぶのか考える必要があります。

「カフェーパウリスタ」のマーケティング戦略外伝
 「カフェーパウリスタ」に提供された無償のコーヒー豆。当時、ブラジルでは1888年に奴隷制度が廃止され、新たな労働力としての移民を必要としていました。そこに日本からの移民がやってきました。移民の人たちの労働は過酷であったものと思います。無償のコーヒー豆はその対価でもありました。

 いつも飲むコーヒーもブラジルにまで移民した人たちのことを思うと味わいも深くなりそうです。

参考文献
長谷川 泰三『カフエーパウリスタ物語』文園社 2008年
ジョナサン・モリス『コーヒーの歴史』原書房 2019年
メリー・ホワイト『コーヒーと日本人の文化誌』創元社 2018年
恩藏直人『マーケティング』日経文庫 2009年
坂井基思『コーヒー消費と日本人の嗜好趣味』放送大学研究年報 第25号(2007)33‐40頁
日本コーヒー史編集委員会『日本コーヒー史』全日本コーヒー商工組合連合会 1980年

1917年から急速に輸入量が増加している
明治期は低調。大正期(1911年)以降に急増。「カフェーパウリスタ」の貢献は大きい