The marketing for niche restaurants

時間ニッチ飲食店の事例:恋と革命の味。物語で繁盛する新宿中村屋のインドカリー

 ここでは8つのカテゴリーのうち時間ニッチ飲食店の事例についてレポートします。カテゴリーの区分けは別ページを参照してください。またこのカテゴリーの市場と顧客分析は予測概論を参照してください。

●新宿中村屋のインドカリー

 新宿中村屋はニッチな飲食店です。どこの店もマネできない歴史がつくった大きな物語があるからです。
   
 日本人が大好きなカレー。世の中にはたくさんのカレー店があります。しかし新宿中村屋のカリーは特別です。新宿中村屋のカレー、正しくは中村屋純印度式カリーですが、以下カリーと表記させてください。
   
 新宿中村屋の広い店内はランチタイムを過ぎても満席です。入り口には順番待ちのイスが20席ほどズラリと用意されています。店内をそっと見回すと、ほとんどのお客さまがカリーを食べています。コールマンカリー、ベンゴルカリーなどカリーのメニューがたくさんあります。もはやカレー専門店と言ってもいいぐらいです。
   
 『中村屋のボース』(中島岳志著)を読んだばかりの私としては感無量のカリーの味です。本のタイトルの主人公ラス・ビハリ・ボースがこのカリーに深く関わっています。

●「恋と革命の味」

 新宿中村屋のカリーのキャッチフレーズは「恋と革命の味」です。ご存じの方も多いかもしれません。インド革命の志士と新宿中村屋の娘にまつわる話しです。新宿中村屋の案内にあるエピソードを引用します。

1915年、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースが日本に亡命し、創業者の相馬愛蔵・黒光(注:こっこう)夫妻に匿われます。その際ボースは相馬夫妻に心をこめて祖国のカリーをふるまいました。その美味しさが「純印度式カリー」のはじまりです。相馬夫妻の長女俊子は、ボースの逃亡生活を陰で支え、後に二人は結婚。俊子と深い絆で結ばれたボースが伝えたカリーは「恋と革命の味」として、今に伝わっています。

 新宿中村屋のカリーには物語があるということです。外食チェーン店のカレーや街の名店のカレーとはここが大きく違います。
  
 話は英国植民地時代のインドからはじまっています。

●インド独立運動史。英国支配への強い憤り

 1498年にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド東部のカリカットに到達したところからヨーロッパのインド進出がはじまりました。
  
 英国は東インド会社などを通じてインド支配を着々と進めました。1757年にはプラッシーの戦いでフランスを駆逐。1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を名実ともに成立させました。
  
 そこまでにも1857年にはシパーヒー(セポイ)の反乱などインド独立への気運はありました。しかし強大な英国の軍事力の前にさまざまな独立運動は抑えこまれてしまいました。反面、インドの人びとの英国に対する怒りと独立への意欲は高まっていきました。
   
 1915年にガンディー(1869~1948)が南アフリカから帰国。独立運動の中心だった「国民会議派」のリーダーとして活動をはじめました。ここでガンディーは非暴力、不服従の無抵抗主義をかかげました。
 
 無抵抗主義は効果がないように思えます。しかし英貨排斥、つまり英国製品の不買運動などはインドの多くの人びとが独立運動として参加することができました。地道な活動は英国だけでなく世界にも大きな影響を与えました。そして第2次大戦後の1947年、ついに独立を達成。長い英国支配から脱しました。

●インドから日本へ。ラス・ビハリ・ボースの独立運動

 一方、独立運動に参加した人たちのなかには武力を使ってでも独立を勝ち取るべきだという人も多くいました。その一人がこの話しの主人公ラス・ビハリ・ボースでした。
  
 ボースは1912年、インド総督ハーディング卿暗殺未遂事件を起こしました。重傷を負わせたものの残念ながら目的は果たせませんでした。英国から指名手配されたボースは1915年に日本に亡命しました。
  
 当時、日本は日露戦争に勝利し、アジアの国ぐになかで西欧の国を打ち破った国として注目されていました。これによって西欧の支配に苦しむアジアの国ぐにから多くの活動家がやってきていました。のちに親交を結んだ孫文もその一人でした。
  
 また日本国内でもアジア諸国の独立を助けるべきだと考える人も多くいました。大川周明、犬養毅、頭山満(とおやまみつる)などの論客たちでした。
   
 しかし日英同盟(1904年~1923年)を結んでいたことから、英国はボースの国外退去を日本政府に要請。国外に退去すれば、たちまち英国が逮捕。投獄されることになります。
  
 これを助けたのが当時、本郷にあった中村屋の創業者相馬夫妻でした。その後、政府は国外退去令を撤回。ボースは日本からインドの独立運動を支援することになりました。日本語を学び、インドに関する情報を日本社会に提供し、海外からインドの独立を支援しました。
  
 やがてボースは日本の政府・軍部ともかかわるようになりました。これによってボースはインド国外の独立運動の有力者となりました。
  
 1940年前後、太平洋戦争のころになると、日本とアジアとの関係は複雑でした。政府・軍部は英国支配に苦しむアジア各国を支援する一方、大東亜共栄圏としての支配も目論んでいたからです。
  
 戦争がはじまるとインド、アジア各国の独立運動が高まっていきました。ボースは「インド独立連盟」の議長として活躍。しかし、ここまでの心労により体調が悪化し、1945年の1月に58歳で亡くなりました。ボースはインドの独立を見ることはできませんでした。

●ボースと俊子の物語

 話はボースが助けられるところにもどります。ボースは当時本郷にあった中村屋の敷地内のアトリエに仲間とともにかくまわれました。
   
 一切の外出ができなかったボースの楽しみはカリーづくりでした。『中村屋のボース』では以下のように書かれています。

…彼らにとっての唯一の楽しみは食事を作ることであった。幸いアトリエには炊事場があり料理をすることが出来た。彼らは女中に食材とスパイスを買ってこさせ、自分たちでインド料理を作った。それを見ていた女中たちは次第に作り方を覚え、黒光に伝えた。黒光もインド料理を覚え、遂に自分たちで作ることが出来るようになる。これが後の中村屋の「インドカリー」のルーツである。ちなみに中村屋で「インドカリー」が商品化されるのは、これから十二年後の一九二七年のことだ。

 国外退去令は支援者の力もあり撤回されました。しかし、それでも続く英国政府の追手から身を隠す必要がありました。ボースは転々と住まいを変えることになりました。ここでミッションスクールに通い、英語が話せる娘の俊子が連絡係として活躍しました。
    
 1918年、その縁から二人は結ばれました。その俊子はわずか7年後の1925年に病いに倒れてしまいました。ボースは妻の手を握りヒンドゥーの教えを唱えながら回復を祈っていました。しかし、その思いはかなわず、幼い子ども二人を残したまま28歳の若さで亡くなってしまったのです。これが恋と革命の味の物語です。

●強烈な物語は記憶される

 この物語によって新宿中村屋は多くの人に知られ、現在も繁盛しています。このような場合、マーケティングでは物語マーケティングあるいはストーリー・マーケティングと言います。でもここまで歴史的な物語になると、もはや「大河ドラマ・マーケティング」ですね。
   
 物語がマーケティングで重要とされるのは、脳に深く記憶されるからです。記憶に残れば、ときには友人に「中村屋のカレーってインドの独立運動とつながりがあるんだよ」と話したりします。口コミです。現在、最も効果のあるマーケティング手法のひとつと言われています。
 
 長期の記憶には2つのタイプがあります。陳述記憶と非陳述記憶です。非陳述記憶とは自転車の乗り方や水泳などのような記憶です。これは忘れません。
  
 もうひとつの陳述記憶のなかには「エピソード記憶」というのがあります。このエピソード記憶がまさしく新宿中村屋の「恋と革命の味」の話です。記憶はいつか忘れてしまいます。しかしエピソードが強烈であれば、いつまでも忘れることはありません。

●物語はつくれない。物語は人を思う心からはじまる

 もうひとつ考えるべきことがあります。中村屋の創業者、相馬夫妻はなぜ見ず知らずのインド人亡命者を助けたのかです。
   
 国外退去命令の出ている指名手配亡命インド人です。面倒なことになるのは目に見えていたはずです。場合によっては中村屋という商売の存続にもかかわるものかもしれません。『中村屋のボース』にはそのときの相馬夫妻についてこうあります。

大英帝国の申入れにおびえて亡命客を追出すなんて、何という恥さらしな政府なのだろうと、主人も私も憤慨した。政府が無能なら国民の手でどうにかならんものか、もっと輿論を高めなくてはと、顔を見合って気を揉んでいた。
(中略)
相馬愛蔵は中村(注:ボース支援者で常連客)から注文を聞きながら、何気なく新聞紙上をにぎわしている「印度人国外退去問題」について話題を向けた。愛蔵が「どうも大変問題のようですが」と言うと、中村は「さあ困ったことでね」と答え、頭山満らも困りきっていることを伝えた。中村が、どうも打開の道がないことを話すと、義勇心を掻き立てられた愛蔵が、何気なく「却って私のようなもののところなら、どうにかかくまえるのじゃないでしょうかなあ」と洩らした。

 これによってボースは中村屋にかくまわれることになりました。会ったこともないインドからの亡命者。しかし困っている人でした。その人のために危険をかえりみず助けた相馬夫妻。ここから物語がはじまったのです。
    
 100年をかけて「恋と革命の味」として人びとに伝わりました。人を助けたことによって新宿中村屋は繁盛を続けています。相馬夫妻は店の将来のためなどとはまったく思っていなかったはずです。

 物語はつくろうと思ってできるものではないようです。見知らぬ人であっても、その人を思う心が物語をつくるようですね。
   
 カリーの発売からすでに100年余り。この物語があるかぎり、未来まで新宿中村屋は存続し繁盛することになります。新宿中村屋はたったひとつの独自の地位。ニッチな飲食店です。

新宿中村屋

<参考文献>
中島岳志『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義』白水社 2005
全国歴史協議会編『世界史用語集』山川出版社 2009
新宿中村屋サイト https://www.nakamuraya.co.jp/
柿木隆介『記憶力の脳科学』大和書房 2015

PAGETOP
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.
PAGE TOP