ここでは8つのカテゴリーのうち時間ニッチ飲食店の事例についてレポートします。カテゴリーの区分けは別ページを参照してください。またこのカテゴリーの市場と顧客分析は予測概論を参照してください。
●元祖メニューの店は長寿の店
飲食店が繁盛して系列店ができたりすることは成功と言えます。しかし、店が長寿であることも成功だと言えます。人生も健康で長生きなら幸福です。
元祖メニューの店の多くは長寿の店になっています。明治、大正、昭和創業の店がたくさんあります。元祖メニューがあることで他の店とは違った独自の競争力があるからです。
ほかの店は時間をさかのぼって元祖の地位を奪うことはできません。元祖メニューの店になることで、世界にたったひとつのニッチなポジションを確保できます。ニッチな飲食店の成功例です。
元祖メニューについては、全国の元祖の店、約50店をていねいに取材した菊池武顕『あのメニューが生まれた店』に詳しく書かれています。
元祖メニューの店を調べるとなかなか面白い発見があります。注目すべき点は、元祖のメニューができるのにはパターンがあることです。とくに興味深いのは、連続的に元祖メニューを出している店があることです。
元祖については、明治、大正などの古い時代では明確な根拠がないものもあります。したがって、ここでは『あのメニューが生まれた店』を出典とします。異説もあると思いますが、ご了承ください。
●元祖のメニューが生まれる4つのパターン
『あのメニューが生まれた店』には、元祖のメニューについて、どのように生まれたのかが詳しく書かれています。それぞれの誕生エピソードを分析してみました。
およそ4つのパターンがあると思います。課題解決型、食材活用型、顧客要望型、そして最も望ましいスタイルである連続提案型です。
①なんとか売上を上げたい。課題解決型:「石狩鍋」「冷やし中華」
この本で紹介されている約60の元祖メニューのうち約4割がこのパターンです。新規開店でお客さまに来てほしい、経営の危機だからなんとかしたい。つまり課題は売上げの向上です。どんな店でも思っていることです。
石狩鍋は、北海道石狩の「金大亭」で明治13年に生まれました。創業の時の看板料理として出されたものです。地元の漁師料理を手本に、鮭だけでなく、当時、北海道で栽培が始まったばかりの西洋野菜のキャベツやタマネギ、さらに白みそや昆布だしなども使った豪華な鍋料理です。
冷やし中華は、昭和12年に仙台の中華料理店「龍亭」で誕生しました。中華料理は夏に売上が落ちるので、それをなんとかしようと考えて生まれたものです。ヒントは「たぶん、ざる蕎麦」とのこと。麺つゆの改良、具材を千切りにするなど、現在のような冷やし中華のスタイルになるまでには、かなりの時間がかかったようです。冷やし中華の元祖は神田神保町の揚子江菜館という説もあります。
創意工夫、試行錯誤などあくなき追及によって元祖メニューを完成させ、人気メニューになったパターンです。
②できるだけ食材を大事にしたい。食材活用型:「トロ握り」「つけ麵」
安く手に入る食材でなにかできないか。残った食材を無駄にしたくないのでなにかできないか。ここから生まれたのが食材活用型です。まかない食から生まれたメニューもこのパターンです。元祖メニューの約2割がこのタイプです。
鮨の最高峰、トロの握り。しかし、明治、大正期までは脂っぽいと嫌われていました。魚河岸ではアブとよばれ、飲食店でネギマ鍋などに使われていました。これを日本橋の「吉野鮨本店」が大正8年ごろに握りとして出しました。「常にアブを河岸で仕入れると悪いウワサになるから、ときどきしか出していなかった」と苦心されたようです。
つけ麵は、東池袋「大勝軒」の伝説のマスター山岸一雄さんが、まかない食として食べていたもの。ゆでる際に残った麺を集めて、冷やしてラーメンの麺つゆで食べていたところ、お客さんから「俺にも食わせろ」の声で、昭和30年にメニューになりました。
日本では年間約600万トン以上の食品ロスが発生しているそうです。食材を大事に生かして新しいメニューをつくる。この取り組みを大切にしたいものです。
③お客さまの要望。顧客満足型:「ふぐ料理」「ちゃんぽん」
必要は発明の母。お客さまのニーズに応えることから生まれたメニューです。これも元祖メニュー全体の約2割ありました。
ふぐ料理。誕生したのは山口県の「春帆楼(しゅんぱんろう)」。1895年の日清戦争の講和会議の場所としても使われた割烹旅館です。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に武士達がふぐの毒にあたったことから、当時ふぐ料理は禁止されていました。
明治時代、時の宰相伊藤博文が「春帆楼」に訪ねてきました。しかし時化(しけ)で魚が思うようにとれなかったことから、しかたなくふぐ料理を提供。あまりのおいしさに伊藤がこの禁制を解いたとのことです。
長崎のちゃんぽんは陳順平氏が創業した「四海樓(しかいろう)」で明治32年に生まれました。陳氏が身元引受人となっていた中国人留学生のために、手軽におなかがいっぱいになるメニューとして考案したものでした。陳氏の出身地、福建省の料理をアレンジ。ちゃんぽんの語源も福建語の吃飯(しゃぽん=ご飯をたべる)からきているとのことです。
「大事なお客さまのために」「苦労している学生のために」と思う気持ちが新しいメニューをつくりだしています。
④つぎつぎと新メニュー。連続提案型:「四川飯店」「壁の穴」「煉瓦亭」
4つめは、連続的にメニュー提案があったパターンです。人気メニューができた、この調子で次も。というケースです。これも元祖メニュー全体の2割強あります。
赤坂の四川飯店。創業者の陳健民さんは日本の中華料理界の伝説的人物です。昭和30年代の前半に、出身地の四川料理を日本人にあうようにアレンジして麻婆豆腐、担担麵、エビチリソース、回鍋肉などを数々のメニューを開発しました。現在の日本にたくさんの中華料理店があるのは陳健民さんのおかげです。
渋谷にある「壁の穴」。ミートソースかナポリタンしかなかった昭和38年に、革新的な新メニュー、たらこスパゲッティをだして大ヒットしました。そのほか納豆、アサリ、ウニ、椎茸など日本の食材を使った新メニューを連続的に開発して、和風のパスタメニューを確立しました。
東京・銀座の「煉瓦亭」。明治32年にポークカツレツを考案した店として有名です。西洋料理の仔牛のコートレットを日本人にあう豚肉のポークカツレツに仕上げました。とんかつは、このポークカツレツをあらかじめ切ってから出すものです。洋食の定番中の定番メニューになりました。
「煉瓦亭」では、これ以降もエビフライ、オムライス、カキフライ、メンチカツなどの現在の「洋食」と言われているメニューを開発しています。レシピの開発は、そうカンタンではなかったようです。洋食の名品メニューが生まれるまでに、相当な数の実験、試行錯誤がおこなわれたようです。
連続的に新しいメニューを出してきた店は「名店」としてブランドとなります。人気店としての地位が未来まで約束されることになります。
●コンビニは毎週100の新商品。飲食店が儲からない要因は新メニューが少ない?
個人飲食店も多い外食産業では、新しいメニューの発売に関する統計やデータがみつかりません。なので、どのくらいの新メニューを出しているのかわかりません。
比較検討ということでコンビニについてです。セブン‐イレブンでは、店頭の商品数は約2900品目。毎週100品目の新商品が投入され1年間で約70%が入れ替わると発表しています(『セブン‐イレブンの横顔』)。単純に計算すると3年継続して棚に残るものは、0.3×0.3×0.3=0.027。3%以下です。驚異的な数字です。
飲食店のメニューの数は50から100といわれています。1年間で、いくつの新メニューが出来て、どのくらいのメニューが入れ替わっているのでしょうか。
飲食店ではコンビニや食品メーカーのように「新商品」をつくる思想があまりないのかもしれません。以前お話ししたように、飲食サービス業の生産性は299万円/人。日本の全産業の中で最低。上位の金融・保険業(1,420万円/人)の2割でしかありません。儲かっていないということです。
要因はマーケティングの不足と疑っています。また、メーカーなどと比べるとオリジナルの新メニュー(新商品)が少ないことも要因としてあるのではないか、という疑念もわいてきます。
●元祖メニューなら高い付加価値がつく
元祖メニューの店として成功するということは、生産性が低い(儲からない)という問題のひとつの解決策だと思います。
東京でも20を超える元祖メニューの店が紹介されています。いくつか行ってみました。率直な感想として「この味、このサービスでこの値段ですか」というところもありました。でも「いいんです!高くてもいいんです!」。おいしいのか、おいしくないのかではありません。元祖の店なら、お客さんは「ここで食べてみたい!」のです。
お客さまは、過去をという時間を味わいたいと考えているからです。その時代にどのようにこのメニューが生まれたかを想像したいのです。それはこの店でしか味わえません。同じメニューを出す競合の店は、どんなにがんばっても時間をさかのぼって元祖のポジションを奪うことはできません。元祖メニューの店はニッチな飲食店です。
ニッチであれば、利益率の高いビジネスが約束されます。高価格で付加価値があがり、生産性が高くなります。高い利益率はニッチ戦略の重要なポイントです。元祖メニューの店は、飲食店のニッチ・マーケティング戦略のひとつの成功事例です。
●コロナ禍で生みの苦しみ。元祖新メニューが生まれるはず
元祖メニューの出現は、明治初期、関東大震災後、終戦後など世の中が大変なときに数多く出現しています。どうしても「お客さまにきてほしい」ということから生まれるのかもしれません。であれば、コロナ禍で苦しむ今が「元祖メニューのあの店」に向かって走り出すための絶好の機会です。
オリジナルの新メニューの創作は大変です。しかし、先人たちを見習って、創意と工夫と改良を続けることです。
そして、「次!」です。オリジナルの新しいメニューを連続的に提案し続けることが大きな成功への近道です。
<参考文献>
菊池武顕 『あのメニューが生まれた店』 平凡社 2013
※このページは2020年6月17日のブログを改稿して作成しています